私たちが旅に出る理由。「観光」を通してその意味を考えよう

私たちが旅に出る理由。「観光」を通してその意味を考えよう

更新:2021.12.14

富永京子です。『ホンシェルジュ』ではゼミ企画やインタビューが続いて、久々の連載再開となりました。再開第一弾のテーマは「観光」です! この原稿は年末年始に公開されるかと思いますが、おそらくこの時期、どこかに旅行に向かっている方も多いでしょう。私自身、全く旅行は好きではなく、もっぱら出張で色々な地域を訪ね歩くくらいなのですが、それだけでも移動や異文化から学ぶことは多くあります。旅が好きな方もそうでない方も、自分が何気なくしている旅や移動について考えるヒントになればいいかと思います。

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ウシジマくんが示唆する「観光」のかたち

著者
真鍋 昌平
出版日
2004-07-30
映画化もされた作品なので、皆さんご存知だと思います。「トゴ」(十日で五割)の金利を課す闇金融『カウカウファイナンス』を経営する丑嶋馨と、様々な経緯から負債を抱える人々の交流を克明に描く作品です。カウカウファイナンスの客は、いわゆる「ヤクザ」からエリートサラリーマンまで様々ですが、彼らの都市における生活はいずれもカウカウファイナンスを通じて、ありていな表現ですが「社会の闇」と隣合わせであることがよくわかります。

「ウシジマくん」がなぜ「観光」なのか、不思議に感じられる方も多いのではないでしょうか。「ウシジマくん」の登場人物たちは、例えばネットカフェやラブホテルからなる「ニギニギ」とした街の雑踏の中で、SNSを通じて他人とつながり、コンビニ弁当を食べながら生活をしています。キャラクターによって十人十色ではあるものの、克明に描かれた都会の風景とそこでの情緒的・経済的貧困、あるいは彼らが持っている欲望の描かれ方は、その景色を見たことのない人にもリアルに伝わってくるものです。

実は、この漫画を読むという体験そのものが、よくできた「観光」なのではないかと感じています。観光の分野には「グリーンツーリズム」や、負の遺産をめぐる「ダークツーリズム」など、社会的な活動を兼ねた観光がありますが、その中に「スラムツーリズム」という概念があります。これは発展途上国や貧困地区の生活を見学し、肌で感じることによって、生活のどのような側面において貧困が生まれるのかを学び、社会が格差を生む構造について関心を持つという目的のもとで生まれた観光の形態であり、今でも多くの地域で行われています。

もちろん、「ウシジマくん」の顧客は、厳密な意味でのスラムツーリズムの対象となってきた人々とは異なり、いわゆる「食うに困る」ような絶対的貧困や、困窮の真っ只中にいる人ばかりではありません。しかし、一人一人の登場人物が、それぞれに人との情緒的な触れ合いであったり、承認であったり、肉親や異性からの愛に欠乏しており、それを埋めるために「金」を求めるさまは、経済的に発達した東京という都市の新たな貧困の情景と、ウシジマくんを通して見られる「スラムツーリズム」を作り出しているとも言えるのではないでしょうか。

バックパッカーがその意味を失うとき

著者
ひぐち アサ
出版日
2001-06-20
観光というと旅行会社によるお仕着せのパックツアーや、有名観光地をめぐるタイプのマス・ツーリズムをイメージしがちですが、バックパックだけで旅に出る「バックパッキング」も観光の一つだといえるでしょう。バックパッキングは、例えば「京都」や「パリ」といった分かりやすい観光地ではなく、発展途上国を中心としたあまり誰も行かないような地域に行き、土着の文化に触れる冒険的な試みです。1970年代ごろに世界各地で発生した「カウンターカルチャー」のひとつとして、たくさんの若者を「バックパッカー」として世界中に送り出してきました。

ひぐちアサの『ヤサシイワタシ』の登場人物であり、本作のヒロイン・唐須弥恵もそうしたバックパッカーの一人です。特に努力はしていないけどプロカメラマンになりたいと語る、自称「マジな人」弥恵は、自分探しのためにアジア放浪を続け、恋愛や人間関係沙汰で周囲をゴタゴタさせる、常に自分の思い通りにいかないと気がすまない写真部イチの問題児。主人公である弘隆と彼女の恋愛関係を軸に、この物語は進んでいきます。

写真サークルという狭い人間関係の中でのドラマがメインで、弥恵のバックパッカー生活についてはほとんど触れられていませんが、彼女の言動自体が1970年代から現代にかけての「バックパッキング」の性質の変遷とも相まって、興味深いものです。弥恵はバックパッキング経験を語る他人に対して「貧乏自慢する人」と言い、写真部にいる人々の活動を「サークルなんて」と揶揄することで、自分の立ち位置を確保しようとします。

違法薬物やアダルト系のアルバイトという「マスとは異なる経験」の中で自分を差異化しようとする弥恵の態度は、アンダーグラウンドとして存在してきた文化が既に抵抗文化でなくなっていることを示しています。弥恵はいくら頑張っても認められない自分に絶望してしまいますが、それは彼女のやっていることがとりたてて他人と変わらない、すでにどこにでもあるありふれた活動だからだと言えるでしょう。バックパッキングも、他ならぬその一つであり、上述したような「貧乏自慢」をめぐる弥恵と同級生とのやり取りは、とりわけこうした形の行動が大学生の中で「ポピュラー化」しているという証拠だと言えるのかもしれません。あまり読んでいて愉快な話ではありませんが、その痛々しさに覚えのある人もいるでしょう。ぜひ読んでみて欲しい漫画です。

繰り返される自分探し 若者を旅へと駆り立てるものとは

著者
羽海野 チカ
出版日
2002-08-19
『ヤサシイワタシ』では東南アジアを旅するバックパッカー・弥恵を紹介しましたが、大学生によるあてのない旅と言えば、この漫画の主人公・竹本くんを思い浮かべた人もいるのではないでしょうか? 『ハチミツとクローバー』は美大を舞台とした青春マンガの金字塔とでも言うべき作品です。

天才の森田さんやはぐ、しっかり自分のすべきことを定めている真山らとは異なり、もやもやした思いを抱え込み続けていた竹本くんは、ある日「空っぽ」な自分を変えたいと思い、自転車で本州を北へ北へと進みます。「自分探しの旅」と周囲に名付けられた彼の旅は、宮大工の面々や田舎の優しい人々との出会いによって彩られている、本作でも印象深いエピソードでしょう。しかし、この旅において、少なくとも旅のルートや乗り物といった点では竹本くんはあまり「自分」を持っていないとも言えます。竹本くんは、旅先で出会ったしんさんに自転車を借り、彼がかつて自分探しの旅を行った際に作成した地図を借りているわけですから、「誰かの自分探し」をそのままトレースしただけと言えなくもありません。さらに竹本くんの旅は、修ちゃんや教授たちといった周囲の大人に「容認」された状態で行われています。

つまり、竹本くんにとっての自分探しの旅は、旅のルートや乗り物自体が何かオリジナルなものというよりも、その過程が彼に及ぼす影響において旅だと言えますし、それは年長の人々も若者たちと同様に行ってきた「通過儀礼」という方が正しいと考えられるのではないでしょうか。

文化人類学者の大野哲也は、「自分探しの旅」のマニュアル化やテンプレート化を「バックパッキングの商品化」と論じました。大野はあくまでこのように氾濫する「自分探し」そのものよりも、若者たちを自分探しに駆り立てる日常の抑圧とは何かを考えるべきだ、と論じます。竹本くんを指して森田さんは、「何でわざわざ探す必要があるんだ? 自分は自分じゃないのか? 」と漏らします。自分探しをしなければいけなかった竹本くんと、その必要を感じなかった森田さんでは何が違うのでしょうか? その差異の中に、「自分探し」が若者の通過儀礼となりつつあり、繰り返されるヒントがあるのかもしれません。

集落の「奇習」が現代と接続される様を追体験する

著者
柏木 ハルコ
出版日
東京からローカル線やバスを何回も乗り継いで行くような場所にある集落・祖ヶ沢。ひょんなことからこの地に訪れた東京在住の少年・相浦くんは、不思議な慣習に出会います。「厄落とし」のために宿の女主人から自分の身体を狙われ、村人たちの「トップシークレット」である出来事に巻き込まれる中で、相浦くんの「常識」「普通」は激しく揺らいでいきます。

山村で行われる性にまつわる奇習を、よそ者である相浦くんの目から追った本作は、何とも言えない神秘性や淫靡さ、あるいは疚しさとでも呼ばれるような感覚に包まれています。しかし、花園メリーゴーランドの興味深い点は、むしろそうした奇習とでも言うべき風習が「現代の」社会と連続する形できっちりと描かれていることではないでしょうか。主人公が宿泊する宿の子である澄子は標準語を話し、主人公にブルーハーツの曲を聴かせることで、東京で過ごす日常を思い起こさせます。

5巻の巻末にある、民俗学者・岩田重則氏の解説が示しているように、山村の奇習や性といったキーワードから思い起こさせるものは、性行為を通じて大人になるという「儀礼」であったり、山村の生産活動を継承すべく新しい命を作るという「再生産」であったりするでしょう。その一環として日常をとりまく「夜這い」や儀式の中での「乱交」が存在しているというイメージは、根強く私たちの中に残っているのではないでしょうか。

『花園メリーゴーランド』は、こうした私たちの「伝承」「奇習」「性」に対する漠然としたイメージを、巧妙な舞台装置をもって(体験したことがないにも関わらず! )懐かしさを作り出すことで追体験させてくれます。土着の言葉を操りながら、主人公と性行為を繰り返す年長の女性たちとの「非日常」と、標準語でブルーハーツの話をする澄子が与えてくれる恋愛という「日常」。このふたつの言葉を行き来することで、伝承が生きているという感覚をリアルに伝えてくれるこの物語は、よそ者である相浦くんを語り手とすることで、巧妙に「よそもの」向けに作り上げられた、誰も体験していないはずの「懐かしさ」を思い起こさせる観光体験であるとも言えるのです。

この物語の始まりは、ある女性の述懐から始まっていますが、最終巻の最後のエピソードで、彼女が誰なのか明らかになります。それが分かった時、この物語が持つ二重の「懐かしさ」と、現代とのつながりが分かります。そこではじめて、この奇妙な物語を紡いだ柏木ハルコの構成力に深く感嘆させられるでしょう。

聖地巡礼からみる、新しい人生の作り方

著者
東村 アキコ
出版日
2012-09-13
異性との交流がろくになく、鉄道やクラゲといったニッチな趣味に走る女性たち「尼~ず」の自立を描いた東村アキコの大ヒット作品といえば『海月姫』ですが、その番外編とも言うべき作品が『BARAKURA~薔薇のある暮らし~』です。海月姫の舞台となる「天水館」の持ち主である千恵子の母・知世子を中心とした主婦3名が主人公であり、「齢五十にして韓流スターにハマってしまった主婦たちが日本のお隣、韓国で韓ドラロケスポットを巡る」(序文)この漫画は、紛うことなき「聖地巡礼」漫画と言えるでしょう。もともとは、特定の信仰を持つ人々がその宗教における拠点や特別とされる場に赴く行為を指しますが、それが転じてドラマや漫画の舞台を訪れるタイプの観光を指すようになったと考えられます。

しかし、この漫画でもうひとつ注目すべきは、驚くべき男性登場人物の少なさでもあります。旅先のイケメンに心奪われたりもしますが、基本的に彼女たちの世界は3人で完結しています。とにかく初っ端からハイテンションで明洞の街を練り歩き、買い物に勤しむさまは、やや高齢ではありますが女性同士の旅行なら「あるある~」という光景です。他にも、やや空気の読めない友達にイラッとしたり、旅先だからと、恐らく使わないような衣料品を購入するシーンなど、共感するところはたくさんあるでしょう。彼女たちの旅は、「子」でも「夫」でもなく、友達と旅をしている点において独特と言えるでしょう。

千世子の友達であるカズ子は「子育ても終わって親とご飯も食べてくれなくて」、夫と二人きりで「毎日なんだか寂しいというか退屈」な日々を埋めるために絵手紙教室に入ったことをきっかけに、千世子たちと韓国ドラマに没頭していきます。シニア・熟年層対象の旅行は数多くありますが、その中でも「セカンドライフ」「新しい人生」といった価値観に言及した広告や特集はよく見られます。さらに男性と異なる点として、男性の旅行相手は「妻」か「家族」ですが、女性はそれに加え「友人」が大きなウェイトを占めます。子の独立によって時間ができた千世子たちは、その時間を韓ドラに宛て、聖地巡礼ツアーに勤しみます。それはたんなるロケ地訪問ではなく、彼女たちの「新しい人生」のはじまりと考えられるでしょう。 

今回はこの5冊でした。いくつかの紹介でも言及したとおり、漫画を読むということも一種の「旅」と言えるのかもしれません。年末年始、どこかに行かれる皆様も、漫画を読んで過ごす私のような人も、ぜひそれぞれの旅を楽しんでくださいね。

この記事が含まれる特集

  • マンガ社会学

    立命館大学産業社会学部准教授富永京子先生による連載。社会学のさまざまなテーマからマンガを見てみると、どのような読み方ができるのか。知っているマンガも、新しいもののように見えてきます。インタビューも。

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