五十音・文庫の旅「ハ行」平岩弓枝、堀江敏幸 etc.

五十音・文庫の旅「ハ行」平岩弓枝、堀江敏幸 etc.

更新:2021.12.13

本を読みたいけれど何を読んだらいいかわからない。なにより今自分が何を読みたいのかわからない。なんて悩んでるあなたのための「五十音・文庫の旅」。己の直感・独断・偏見・本能でもって選んだア行からワ行までの作家さんの作品を己の直感・独断・偏見・本能でもってここへご紹介するという寸法だ。今回は「ハ行」。なぜ文庫なのかというと安くて軽くて小さいからです。

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ムツゴロウの根釧原野

著者
畑正憲
出版日
1986-01-25
「は」畑正憲。
ムツゴロウさんといえば動物の楽園ムツゴロウ王国の主だが、実は凄腕の文筆家なのだ。と知りつつ一冊も読んだことがなかったので今回手に取ってみた。
 
驚いた。冷たく厳しいが力強く迫力のある原野の鮮やかな情景描写に、冒頭から息を呑む。歯切れの良い文章も気持ちがいい。随筆を謳ってはいるが、蓋を開けてみると短編や聞き語りの小品など、いろいろな作品の詰め合わせになっていて面白い。そういった短編などを「思わず書いてしまった」というところにムツゴロウさんの表現に対する情熱と人の良さを感じる。

随筆の名手でもあるが聞き語りの名手でもあるムツゴロウさんの周りは個性的な人々で溢れている。馬の調教師でムツゴロウさんと兄弟分の盃を交わした義理堅い三兄弟や、雪道のプロのタクシードライバー、多くの死者を生んだ大時化から生還した漁師、喧嘩競馬の伝説的な騎手や停電と戦う北電の社員。それらの人々の貴重だったり奇妙だったりする体験談を迫力のある文章で描き上げた聞き語り作品は、いずれも珠玉だ。
 
周りの人々や共に生きる動物、そして根釧の原野を師として、新たなこと・知らないこと・人のやっていないことを貪欲に吸収してどんどん行動に移していくムツゴロウさんの姿勢がとてもカッコイイ。ロックのロの字も出てこないけれど、ロックを感じる作品。ムツゴロウさんは隠れロックンローラーなのだ。一度、読んでみて欲しい。

下町の女

著者
平岩 弓枝
出版日
2015-04-10
「ひ」平岩弓枝。
食わず嫌いで一冊も読んだことのなかった作家。勝手な先入観で絶対自分は嫌いだと思い込んでいたがこの機会に読んでみた。結果、先入観ほど愚かなものはないと思った。東京・下谷の花柳界随一の名妓「福寿」こと野崎こうと、その娘で芸の才能がありながらその世界から距離を置く桐子。

かつて大きな規模と格式を誇っていた下谷の花柳界は世の移り変わりに寂れていく一方だった。しかも娘の桐子はこうの営む芸者屋「福乃家」を継ぐつもりがなく、こうはならばと自分一代で店を終わらせる気になっていた。しかしある日、新潟から事情ありげな芸者見習い・市子がやってきて、「福乃家」は俄かに活気ついてくるが……。
 
なんとも気持ちの良い作品だった。クセのある登場人物たちだが、みんな憎めない可愛らしさをもっていて、それが抜群のスパイスになり物語に奥行きができている。わざとらしくない、あっさりとした文章は、すうっと胸に溶けていってもたれることなく一章が終わる度にじんわりと感動させてくれる。まさに東京・下町を描くにはぴったりの文章だと思う。素晴らしい技巧。人物描写のセンスだけではなく、著者の玄人感もしっかり感じさせながら瑞々しくもある、良質な文章だ。
 
そして作中度々登場する、こうと桐子母娘の口喧嘩のシーンは読んでいてハラハラしながらもクスリとさせられ、その軽快なテンポが、作品全体のリズムを作っている。下町ならではの親子喧嘩は、元気なんだけれどお互い意地を張っていてどことなく物悲しい。それだけでなんだか少し泣けてくるような、そんな名場面がたくさん散りばめられている。「母娘の絆」をお互いの意地で何度も汚したり、踏みにじにったりするけれど、やっぱり強く繋がっていようとする、こうと桐子の二人が愛おしくてしょうがない。
 
二重にも三重にも感動させてくれるこの作品、是非読んで欲しい。素晴らしい作品だ。

爪と目

著者
藤野 可織
出版日
2015-12-23
「ふ」藤野可織。
ここで文章を書かせてもらうようになってから女流作家にあまり抵抗を感じなくなってきた。むしろ自分は愚かでした。すみませんでした。という心境です。そんなわけで自然と手に取ったのがこの作品。「史上最も怖い芥川賞受賞作」との大袈裟な謳い文句に少し戸惑ったが、読み終えて思わず唸った。
 
母を失った三歳児と父とその再婚相手を取り巻く不穏な空気を描いた作品なのだが、まず独特なのが物語すべての視点が三歳児であるはずの「わたし」で、その「わたし」が父や継母のことを語るのだ。他の視点は一切出てこない。なんとも不気味だ。そのせいで冒頭から一気にその世界に引きずり込まれる。

決して激することなく淡々と連ねられた文章は決して非日常を演出せず、「日常的」を描き出している。しかしその「日常的」を凄まじい握力で掴んで離さず逃さないようにして読者に隅から隅まで丹念に凝視させようとする。しかし作中の人物たちは「見ないこと」に徹底している。そこにこの作品の怖さがある。気色の悪さがある。漢字とひらがなのブレンド具合も独特な雰囲気を醸し出すのに一役買っている。
 
今まで読んできたホラー作品とは完全に一線を画していた。不安な空気が物語全体にずっと同じ濃度で漂っているのに、先の読めない怖さに怯えているのに、頁を捲る手が止まらない。これは、新感覚のホラー作品であり、まぎれもなく第一級のエンターテイメント作品だ。一読あれ。

移動祝祭日

著者
アーネスト ヘミングウェイ
出版日
2009-01-28
「へ」ヘミングウェイ。
『老人と海』しか読んだことがなかったので、この機会にと読んでみた。ヘミングウェイが自ら、まだ文豪と呼ばれる日も遠い頃のパリ暮らしの日々を綴った私小説。遺作でもある。
 
当時を彩るキラ星の如き芸術家達との交遊や軋轢、妻との自由な時間、行きつけのカフェやお気に入りのレストランなどを、卓抜した観察眼とユーモアで描き出している。なかでもヘミングウェイに深く影響を及ぼした二十世紀を代表する前衛作家の一人、ガートルード・スタインや、『グレート・ギャツビー』などの著者である親友のスコット・フィッツジェラルドとの交誼は、実に興味深く、しかも面白く読めた。
 
しかしその美しく穏やかなパリでの生活には常に寂寥が隣り合わせになっている。小説を書くことに対する情熱の隣にも何かしら、また違った種類の寂寥がある。文章上の静かな凄味があるが、それをも通して伝わってくる独特な寂寥感。パリの街の光と影と相まって、心が揺さぶられる。これはハードボイルドだと思う。
 
そして地位や名誉に囚われない、自由で美しい時間で溢れていた日々の中で、作中の若きヘミングウェイはもがき続けている。「ただ真実の文章を書きたい」と、もがき続けている。実に肉々しい感動のある作品だ。
 
高見浩氏の翻訳文は素晴らしく清洌で読みやすく、氏による解説も逸品。 興味が出たら是非読んでみて欲しい一冊。

熊の敷石

著者
堀江 敏幸
出版日
2004-02-13
「ほ」堀江敏幸。
予備知識なしでタイトル買い。可愛い熊のお話ではなかった。

フランス滞在中の主人公である「私」は古い友「ヤン」が住む田舎を訪ねる。そこでヤンの先祖であるユダヤ人の歴史や経験と、先天的に目の見えない子とその母親との出会いから、「なんとなく」という感覚の違和や理解の上になりたつ人との繋がりを思索し、真実を見つけ出そうとする。
 
冒頭から思いっきり引き込まれる。これまた読んだこのないタイプの文章だった。一見して静かな印象だけれど、一頁目を読んで捲った瞬間、読んでいる自分の周りがぐわっとその世界の景色になっていた。その後は、目の前に現れた妖精に幻惑され誘われるまま森の深くに入っていってしまうように、読み進めて行くことになる。そんな冒頭からふわりと目が醒めると今度は寂寞とした雰囲気のある現実に戻される。

時折怠惰な表情を見せる文章のリズムはとても心地が良かった。読み進めて行くうちに、著者の深い精神世界を旅しているように感じてくる。
 
とはいえ、この作品はファンタジーではなく、すべての筋が用意周到に張り巡らされた純然たる精巧な小説。「ある答え」に向かって道草をしながらも緩やかな歩みを止めず、そしてその行程を楽しみつつ、またそこに行き着かなくともいいような。「こんな形の人生の真実だってあるだろう」。そんな心がある作品だ。
 
不思議な雰囲気があるけれど、とても現実的な物語だと思う。この作品の気持ちのいい文章に触れるだけでも、読む価値はあるはず。

というわけで、ハ行の五冊。
心が洗われるような作品にまた出逢えた。
まだまだ読み足りない。ではまた来月。

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