5分でわかる沖縄戦!概要と流れ、集団自決や「ガマ」等もわかりやすく解説

更新:2021.11.16

激しい地上戦がおこなわれ、民間人を含めた多くの人が亡くなった沖縄戦。この記事では、概要と流れ、地上戦、「ガマ」の役割、集団自決などを解説していきます。あわせて理解が深まるおすすめの関連本も紹介するので、ぜひご覧ください。

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沖縄戦とは。概要や流れ、死者数などを解説

 

太平洋戦争末期の1945年3月から6月、沖縄本島やその周辺の島に、アメリカやイギリスを主体とする連合軍が上陸しました。彼らと日本軍の戦いを「沖縄戦」と呼んでいます。

参加した兵力は、日本軍が約12万人、連合軍が約55万人。日本は民間人も含めて約20万人の死者を出し、連合軍側は最高指揮官バックナー中将を含め約2万人が亡くなりました。

連合軍が沖縄を攻撃した目的は、日本の本土を攻略するための基地拠点を確保すること。一方で日本は、大本営の「連合軍に打撃を与え、有利な条件での講和を目指す」という目的と、現地司令部の「本土決戦までの時間稼ぎ」という目的があり統一されていない状況でした。

牛島満中将を最高司令官とする日本軍は、連合軍を内陸部に誘い込んで持久戦をおこなう方針を基本としていましたが、連合軍に大きな打撃を与えたい大本営からは積極攻勢を促されるなど、具体的な戦い方の方針も迷走することがあったようです。

では沖縄戦の流れを説明していきます。

連合軍は3月23日、上陸に先立って、空襲や艦砲射撃をおこなっています。3日後の3月26日に慶良間諸島へ上陸、29日までに占領しました。4月1日には沖縄本島中西部への上陸を開始します。

一方の日本軍は、4月6日から特攻機を含む航空機による大規模反撃を試み、戦艦「大和」らによる海上特攻もおこないましたが、戦果を挙げられないまま壊滅。「大和」も激しい空襲を受けて撃沈されました。

沖縄本島にいた日本軍は、南部では塹壕を地下に張り巡らせて持久戦をとり、連合軍を苦戦させます。しかし戦力の差は明らかで、徐々に追い詰められていきました。

北部では、南部が主戦場になると考えられていたためそもそもわずかな兵力しか配置されておらず、4月22日までに制圧されています。

5月3日から4日にかけては、戦況の打開を目指して総攻撃が敢行されました。連合軍に相当の損害を与えることはできましたが、結果としては失敗。5月27日に首里陣地を放棄することとなりました。
 

大田実少将率いる海軍の沖縄方面根拠地隊は、小禄地区で包囲され、6月13日に玉砕。彼が次官宛に送った電報には、「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」つまり「沖縄県民は戦い抜いた、県民に対して後ほど特別なご配慮をいただきたい」とあり、広く知られています。

牛島満中将率いる陸軍では、6月18日に各部隊との通信が途絶し、組織的な戦闘が終了。牛島は6月23日に自決しました。

しかしその後も残存兵による抵抗は続き、沖縄戦が最終的に終結したのは、太平洋戦争が終結した後の9月7日のことでした。

沖縄戦の地上戦について。住民も強制的に参加させられた

 

沖縄戦の地上戦には、軍人だけでなく現地で暮らしていた住民たちも参加していました。「国民徴用令」や「国民勤労報国協力令」といった法律にもとづいて、飛行場の建設や陣地の構築などの後方任務に従事していたのです。

男女を問わず動員され、本来であれば対象年齢外であるはずの老人や児童らも、名目上は自主参加としながらも実質的には強制的に参加させられていたといいます。

戦況がひっ迫してくると、後方任務だけでなく戦闘要員としても動員されるようになりました。土地勘を活かしてゲリラ戦で戦う「護郷隊」、在郷軍人会による「義勇隊」、中学校や女学校の生徒による「学徒隊」、14歳以上の女子生徒を従軍看護婦とした「ひめゆり学徒隊」などが組織されています。

沖縄戦における「ガマ」の役割

 

沖縄の戦跡巡りの定番となっている「ガマ」は、自然にできた洞窟のこと。石灰岩で形成されたいわゆる鍾乳洞が多く、「ガマ」は沖縄の方言です。

沖縄戦においては、住民の避難場所や軍事拠点、医療施設として用いられました。

戦況が悪化すると、日本軍がガマに後退してくることもあり、戦闘の邪魔になるからという理由で住民たちが退去を命じられることもあったそう。移動を余儀なくされた住民が連合軍に見つかり、命を落とすケースもあったようです。

これらのガマのなかには、平和学習を目的に見学することが可能なものもあります。いくつかご紹介しましょう。

ヌヌマチガマ

八重瀬町にある全長約500mのガマ。戦時中は野戦病院の分院が置かれ、多くの傷病兵が収容されていました。満足な治療ができないなかでも懸命に看護にあたったのが「白梅学徒隊」の女生徒たちです。この場所で、学徒隊46人のうち22人が亡くなっています。

チビチリガマ

読谷村にあるガマ。米軍の上陸地点の近くにあり、米軍上陸の翌日には、この場所に避難していた地元住民が集団自決をしています。80人以上が亡くなり、その半数以上が18歳未満の子どもだったそうです。

ターガーガマ

南城市にあるガマで、地元の約8世帯の方が避難生活を送っていました。幸いにも戦闘に巻き込まれることはなく、死者も出ていません。

当時の住民たちが自作したトイレや防空壕などが残っていて、彼らがおよそ3ヶ月間過ごした様子を学ぶことができます。

沖縄戦の集団自決について

 

「集団自決」とは、一般の住民が集団で自殺する行為のこと。沖縄戦で多発し、その死者数は1000人にのぼるとされています。

背景には、軍人の行動規範とされていた「戦陣訓」にある、「生きて虜囚の辱めを受けず」が民間人の間にも浸透していたこと、米兵が日本兵の遺体を弄んだ様子が報道され、敵に捕まったら何をされるかわからないという恐怖心があったこと、政府が国民に降伏する具体的な方法を教えていなかったことなどがあったとされています。

「集団自決」という言葉は戦後になってから広まったもので、新聞社「沖縄タイムス」の太田良博によって作られたもの。戦時中は「玉砕」「自決」「自爆」と呼ばれていたものを言い換えました。

日本軍による強制や誘導によって命を絶った、はたまた住民が自らの意思で命を絶ったなど、さまざまな状況があり、住民たちが集団で自殺をすることになったすべてのケースにこの言葉を使ってよいのかどうか、現代でも議論が尽きません。

慶良間諸島では戦後長らく、軍の命令によって集団自決がおこなわれたとされていましたが、住民による偽証だったことが明らかになりました。厚生省から支払われる遺族年金をもらうためには「軍の命令」である必要があったため、実際は村長の発案であったことを隠していたそうです。

司令部の生き残りが語る真実

沖縄決戦 - 高級参謀の手記 (中公文庫プレミアム)

2015年05月23日
八原 博通
中央公論新社

 

沖縄戦で「持久作戦」を提案・実施し、投降後は司令部の生き残りとして米軍の捕虜となり、生還を果たした八原博通。本書は、実際に現場で指揮をとっていた彼が当時の様子を語った作品です。

華々しく突撃して玉砕することを美徳としていた組織のなかで、少しでも長く生きて戦い続ける「持久作戦」を提案することは、臆病者といわれても仕方のないことでした。適わないことがわかると、自決しようとする仲間を引き留め捕虜となる道を選びます。

多くの批判にさらされることとなりましたが、だからこそ本書が形となりました。

戦い前の準備から終戦後の生活まで、日付や地名などが詳細に記されているので、かなり貴重な資料であるといえるでしょう。

沖縄戦を写真で見る

著者
大田 昌秀 編
出版日
2014-04-15

 

作者の大田昌秀は、「鉄血勤皇隊」の一員として沖縄戦を体験し、後に沖縄県知事も務めた人物です。九死に一生を得て生き延びたら、戦争の実態を明らかにしたいと考えていたそう。

終戦後にアメリカの国立公文書館に通い、米軍の報道班による写真と図版などの資料を集めて本書を作成しました。

砲撃で穴だらけになった道路、破壊された戦車、ガマに向けて火炎放射器を打ち込む姿、遺体、保護された子どもや老人……写真で見ると、その悲惨さがよりダイレクトに伝わってきますが、目を背けずに知っておくべき事実でしょう。

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